蒼い森 Caol Áit

亀井俊介、川本浩嗣『アメリカ名詩選』(岩波文庫、1993)

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 時間のない人のために結論から。アメリカ詩の良質なアンソロジーを求めている人が何か一冊手許に、という目的には最適の書。これ以上のものはちょっとない。

 植民地時代から19世紀後半のエミリ・ディキンスンまでを亀井俊介(ホィットマンが専門)、そのほか大体全部を川本皓嗣(比較文学)が担当し、詩の原文、日本語訳、註釈で構成。詩の出典、索引、詩人小伝も完備。400頁足らずの本によくもこれだけ詰込んだというくらい充実しており、一生の間よみかえすに足る内容と水準がある。

 この書ならではの特徴を挙げると、ほかでは中々よめない珍しいというか難解な現代詩人も取上げていること。ジョン・アシュベリやシーオドー・レトキやマリアン・ムアなど。また、実に丁寧に読込んだ翻訳と、読者の理解を深める註釈が附いていること。翻訳の裏づけとなる解釈について註釈に明確に示してあるのは良心を感じさせる。

 明治30年に内村鑑三は「米国詩人は英国詩人よりも遥かに偉大なり」と述べた。当時も今も妄言と受取られかねない。が、本書を味読するひとはその慧眼に驚くことになるだろう。




巽孝之『『白鯨』アメリカン・スタディーズ』みすず書房、2005

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 19世紀米国の長編小説『白鯨』は「世界名作十大小説」に入るほど著名でありながら、その本当のおもしろさが広く知られているかどうか。

 米文学および米文化を語らせたらこれほど鋭く面白い人はなかなかいない著者によるハーマン・メルヴィル『白鯨』読解は、ひかえめに言っても知的にスリリングな書だ。21世紀のひとがいま『白鯨』を読めば何が見えてくるのか。

 歴史的に見ればもちろん日本も関係する。世界の捕鯨文化を語る上で、かつての米国の政策と日本の現下の方針とはそれほど離れてはいないのに、周知の通り、現代ではまったく語り合う地平すらないように見える。だが、本当にそうだろうか。

 本書は、単なる魔獣モービ・ディクへの復讐譚とする観方から、時空を超えて現れる巨大生物、たとえば核時代のゴジラにその影響をたどる観方まで、幅広く、わかりやすく検討する。

 もちろん、中心にあるのはテクストの精密な読みで、エイハブ船長をはじめ、拝火教徒フェダラーの謎、アメリカン・ルネサンスにおける「明白なる運命」との関係等々、抜かりなく考察がすすめられている。

 さらに、『白鯨』第1章、第135章、エピローグの著者による翻訳が附く。これはまことにうれしいボーナスだ。






[Kindle版]



Seamus Heaney, The Midnight Verdict (Gallery Books, 2001)

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 アイルランドのノーベル賞詩人シェーマス・ヒーニが訳したブリーアン・メリマンの『真夜中の法廷』 Cúirt an Mheán Oíche。抄訳であり、しかも、前後をオウィディウスの『変身物語』 Metamorphoses のオルペウスとエウリュディケのエピソード(第10巻と第11巻)で挿むという変わった形をとっている。全体では42ページほど。

 この3篇の詩をひとつとして捉えることもできるし、それぞれ別箇に扱うこともできる。ここでは『真夜中の法廷』のみについて書く。

 18世紀後半に書かれたこのアイルランド語の詩は、強勢詩の白眉として、アイルランド語詩史に燦然と輝く金字塔であり、アイルランドの小学生なら誰でも冒頭の20行くらいは暗誦しているというほど有名な作品だ。ただ、内容は教会批判(若い女性の結婚相手の不足を聖職者の独身制廃止により実現せよと迫る)を含むため、英訳書は発禁になったこともある(アイルランド語の原書は発禁になったことはないはず)。題名は、アイルランドの男性を女性の立場から裁く、妖精女王による法廷の意味。

 この詩は1行あたりの4つの強勢のうち、真ん中の2つが母音韻を成し、最後の1つが脚韻を成すという詩形で書かれている。詩の冒頭の箇所でヒーニがその詩形を意識して訳しているのは第9行のみだ。この冒頭部では、詩人がグレーネ湖(アイルランド南部)のほとりを散歩しているところが描かれ、美しい自然の景色を見て倦み疲れた心が癒されると綴られる。

 原詩をまず見る。
Do ghealfadh an croí bheadh críon le cianta
「歳月とともに萎えた(私の)心は昂揚した」くらいの意味だが、これをヒーニはつぎのように訳す。
My withered heart would start to quicken
以上の引用で太字にした部分が母音韻を成す。

 原文に「私の」とは書いてないけれど、ヒーニのように「私の心」と訳すほうがくっきりする。
ヒーニの択んだ 'heart' と 'start' の母音韻の組合せは残念ながら原詩におけるようには次の行に続いていかないけれど、脚韻のひびきは第10行末の 'hardbitten' に引継がれ、このあたりが英語で詩を書く場合の限界だろうけれど、がんばっている。

 ヒーニは全体として弱強四歩格の対句の詩形で書いており、2行単位の韻律をひびかせている。メリマンの原詩のように、数行にわたって、水平方向、垂直方向に縦横にひびきわたるという壮大な音宇宙ではないものの、英語の詩としては読ませるものになっている。

 もし、原詩を全部英訳したものということになれば、訳は数種類あるけれど、キアラン・カースンのものがいちばん原詩のリズムに近い訳になっている。


トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の夏まつり』(講談社、1981)
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 不思議な小説だ。特にこれといって何かを強烈に主張している感じはなく、ムーミン谷で起こるさまざまのできごとを、ムーミン一家の視点を中心に淡々と語ってゆくだけなのに、読者の中で、知らぬ間に大きな変化が起きている。まるで魔法のようだ。

 この変化は言葉で説明するのが難しい。読んでない人に、あるいは読んだ人であっても、この体験を伝えるには、ぼくに起きたことを語るしかない。

 ぼくは1章ずつ読んでゆく。ムーミン家に大勢が集まっている。突然、洪水が起きて、家では暮らせなくなる。そこに劇場が流れてくる。ムーミンたちはそこへ移り住む。特にあわてる風でもなく、いつものペースのまま、新しい生活様式に移行してゆく。そこで交わされる会話。特に、ムーミンママの言葉が作者ヤンソンの思想を反映しているのではないかと思われるくらい、おだやかで、かつ芯が強い、哲学的なものだ。ムーミンパパとは明らかな対照をなす。とんでもない極端なミイの発言がはさまることで、ますますムーミンママの言葉は輝きを増す。

 その1章ずつをゆっくり読み、1章読み終わるごとに、ぼくはしばらくぼうっと過ごす。そのときだ。不思議な魔法が働きはじめるのは。世の中で起きていること、身のまわりで起きていることが、たいへん明瞭に見えてくるのだ。頭の中で、諸事万端が像を結びだすといえばいいのか。

 その間、何かを考えているという意識すらない。自然に起きるのだ。まるで、ムーミンママの口調で世の中のことが説明されているような心地すらするもちろん、そんな声が頭の中でしているというわけではなく、ただ「わかる」のだ。本当にふしぎだ。あるいはムーミンママの口調ですらないのかもしれない。この物語世界の言葉がそのままこちらの現実世界をときほぐすかのような感じなのだ。

 ちなみに、ぼくはこのエピソードはアニメ版のムーミンで見ている。だけど、アニメではこんな感じは起こらない。

 どうしてなのか、さっぱりわからないので、ちょっとズルをしたくなり、ひそかに勉強している『ムーミン谷のひみつの言葉』という本を手に取った。すると、ムーミンママの項は、ママがたいせつにしているハンドバッグの話であり、ママはえらく感情的で、わがままなように描かれてる。ちょっと違うんだなあ。確かにそんな面があるかもしれないけど、ムーミンママはある面、哲学者なんだぜ。そこんところ、よろしく。と言いたくなるくらいなのだ。世の中うまくいかないなあ。

 というふうにつらつら思っていたところ、本書がもたらす効果はクラシック音楽に似ているのではないかと思った。器楽演奏のクラシックの場合、歌詞はない。けれども、聴いている人の精神の中に、心の中に、魂の中に詩をつくりだす。聴き手の中に詩をつくりだすんだ。つまり、世界が詩のように見えちゃう。これってすごいことなのではないか。ところで、今の発想はマロリー・ブラクマンの小説から。

 ところが、第5章「劇場で口ぶえをふくと、どうなるか」のあたりから、ちょっと様子が変わってくる。どうも、ムーミン家の考え方とは違う人たちも世の中にはいるみたいだとわかってくる。自分たちが決めたルールが絶対で、それを守らない者には有無をいわさず罰を課すといった態度の人たちが出てくるのだ。これはムーミン谷の住民には試練だ。これ、どうのりきるの、と心配してるところへ、スナフキンが火に油をそそぐようなことをしでかす。それはそれで、スナフキンの行動は理解できるのだけど、ここの様子からするとやばいことになりそう。

 ニョロニョロのような超自然的存在により解決されて話がおしまい、と思ったのもつかのま、本書はちょっと違う展開になる。まだまだ、堅い壁にぶつかる感じだ。それでも、ムーミン家流のおだやかで決然たる姿勢はゆるぎがない。ムーミン谷の外の世界観とのぶつかりに、劇場空間というものを配することで、複雑な読後感になった。


新装版 ムーミン谷の夏まつり (講談社文庫)
トーベ・ヤンソン
講談社
2011-05-13


Malorie Blackman, Cloud Busting (Doubleday, 2004)

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 すべて詩で書かれた点で特異な1人称児童小説(2004)。ふたりの男の子、デーヴィとサムとの関係をあつかう。英国の児童書に贈られるネスレ児童書賞の銀賞を受賞している(2004年、6-8歳部門)。また、英国の最も優れた児童書に贈られるカーネギー・メダルの候補作にも入った(最終選考〔ショートリスト〕まえのロングリスト)。

 各章ごとに違うスタイルの詩で書かれている。そこで、以下、主として英語の詩としての分析をおこない、最後に題名について考える。なお、千葉茂樹訳が『雲じゃらしの時間』(あすなろ書房、2010)の題で出ている。

詩の韻律の概要
 基本は1行に2から5の強勢を含む。各行に何音節あるかを気にして、それが意味のある場合もあるが、英語のような強勢でリズムをとる言語の場合、(現代の)詩におけるリズムを考えるためには、行あたりの強勢の数に着目するほうがよい。とはいえ、本書では音節によってリズムをとった詩で書かれることもある('haiku' の5+7+5=17音節詩形で書かれる第3章など)。また、伝統的な英詩に典型的な、強勢と音節の両方の要素を考慮に入れた詩形(accentual-syllabic)で書かれることもある(第7章など)。脚韻(行末の韻)は一部(後述の5章など)を除いて、ない。本書における詩のビートの全体の感じは、たとえば 'Jazz Chants' のそれに近い。英国の低学年児童が聴いて普通に理解できるリズムと表現になっていると考えられる。

 行内韻(internal rime)は出てくることがある。'My ex-best friend Alex.' など(第1章)。おかしなことにすぐあとの第2章では 'My best friend Alex' と普通の形で出てきて、韻律と同時に内容の違いに、拍子抜けしてしまう。さらに頭韻(強勢音節の頭の子音同士の韻)も出てくる。カーテンの色の描写で 'Yelling yellows, booming blues, gargling greens' など(第19章)。

第2章~第4章
 第2章は名前の話題が多いけれど、ときには発音の仕方まで嬉しそうに書かれている。 'And on my left / Alicia. A-lic-i-a!' のように。この娘のことが好きなんだなというのは、つづく2行でわかる。'A name like April showers / Dropping gently onto spring flowers.' ついでに4月のことも好きなんだなというのが 'name' と 'April' の母音韻(強勢音節の母音同士の韻)で感じとれる。

 この女の子アリシアはデーヴィに夢中だということが第4章でわかる。そこではデーヴィは背が高く物静かだと描写される。

第5章
 第5章は定型詩(limerick の詩型)で書かれている。aabba の押韻形式。これが徹頭徹尾デーヴィに対する悪口の詩だ。たとえば、'And his bum is so smelly / It appeared on the telly' のような。TVで取上げられるくらい臭いって、ひどい言い方。実は、このあたりまで読み進んでくると、本書はどうやら一人の男の子(デーヴィ)に対する複雑な感情(表面的には嫌悪感)が表されたものだとわかる。あまりにも嫌いという感じが強く出すぎるので、読んでいるうちに、これはそうとでも言わないと耐えられないくらい深い思いの裏返しなのではないかと、少しずつ思えてくる。

 デーヴィについて第4章では肯定的に描きながら次の第5章で手のひらを返したようにけなしまくるのはなぜだろう。アリシアをめぐる三角関係を想定した場合には、'laugh' という単語が手がかりになる。

 第4章でデーヴィは 'A good laugh (according to Alicia)' と描かれ、これはデーヴィのことが大好きなアリシアによる表現だから、いい意味の 'laugh' つまり英国英語でいう「一緒にいて愉快な人」('somebody is a (good) laugh': used to say that someone is amusing and fun to be with)の意だ(著者は英国の作家)。

 ところが、これを第5章ではわざと反対の「物笑いの種」の意味に曲解して罵倒している。第5章の冒頭はこの語を動詞に使ってこういう。'When I see scabby Dave, how I laugh!' この語は同じ連の最後の行 ''Cause he never once gets in the bath.' と韻を踏み、風呂('bath')に入らないからあんなに臭いやつなんだの意を強調している。

 なお、厳密にいえば bath と laugh は不完全韻(slant rime)となるだろうが、th を f で発音することはロンドン英語をはじめとする英国各地の方言で見られる(th-fronting 〔歯間摩擦音が唇歯摩擦音になる〕と呼ばれる現象)。

第6章
 第6章 'Putting the Boot In' はその題のとおり、デーヴィを「ひどくけり上げる」詩で、詩行が靴の形に配置された、いわゆるタイポグラフィク詩(typographic poem)になっている(下の写真参照)。著者は図形詩(shape poem)の名称を使っている。形にまず目が奪われるが、詩の内容は心胆寒からしめるほどのものだ。いじめとはここまで恐ろしいものなのかとわかる。特に、最初の4行、引用符号に囲まれた部分の動詞の命令形が、つぎの地の文で過去形になっている意味に気づかされるとき、心が凍りつく感じがする。同じ型がもう一度くりかえされる。

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第7章
 第7章は静かな転機だ。この章をさかいに本書のトーンは変わり始める。弱強五歩格で脚韻をふまない無韻詩(blank verse)で書かれている。本書は全部で26章あり、それぞれに工夫をこらした詩のスタイルで書かれているが、この第7章はことに深く静かに響く。いくらいじめられても無言で悲しいかすかな笑みを浮かべるデーヴィの姿がここで浮き彫りにされる。

第8章~第10章
 第8章で重大な真実の告白がなされ、第9章では新しい認識の夜明けが告げられる。その際、ビートルズのマジカル・ミステリ・トゥアのはじまりを想起させる 'Roll up' のかけ声が使われる。第10章は8行連が15連つづく、長い詩。ある事件が起こる。ここでデーヴィがサムに見せる「ひとつのにぶい虹」('A blunt rainbow')をえがく8行(第12連)は息を呑むくらい美しい。本書の詩としての頂点はここだ。

第11章~第14章
 第11章でデーヴィは蝶になった夢を見た男のことを読んだとサムに語る。夢からさめて、男は自分は蝶になった夢を見ていた男なのか、それとも男の夢を見ていた蝶なのかと自問する。あきらかに荘子の「胡蝶の夢」の話だ。デーヴィは物には複数の見方があり、人と同じ考え方をすることほどつまらないことはないと語る。ところが、大人社会と同じく、子供社会でも、それを貫きとおすことは困難をきわめる。このあとは、デーヴィの理想とまわりの現実(サムを含む)との相克が焦点となる。第13章から第14章にかけての一見ささいな出来事はデーヴィとサムとの関係にどんな影響を与えるのだろうか。そのあとは胸をしめつけられるような展開。

 本書は男の子ふたりの間によくありそうな関係を描いているだけともいえるが、詩による語り、デーヴィのふしぎな世界観、サムのジグザグの生き方などが忘れ得ぬ印象を残す。

題名
 さいごに題名について。読む前から、英国の天才シンガー、ケート・ブッシュの歌 'Cloudbusting' (1985)にインスピレーションを受けたのではないかと想像していたが、第10章の第14連(それまでそこになかったか、あるいは気づいていなかった雲への言及がある)を読んで、ぼくの中では確信に変わった。ただし、著者はあとがきでこの歌のことは何にもふれていないけれど。ともかく、その歌でうたわれる、精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒが作り出した雲を作り出す機械と、その成果を見つめる子供ペータ(ピータ)の畏敬にあふれた表情が想起され、この父子の関係はデーヴィとサムとの関係に遠く谺しているように思われてならない。上記の歌のリンクをたどるとオフィシャル・ビデオが見られる。このビデオにはケートが影響を受けた Peter Reich の書 Book of Dreams が一瞬映るが、現在ではとんでもない高値の奇覯本だ。

 本書は epub 版(kobo)で読んだ。Adobe Digital Editions などを使えば PC 上で、また iOS 機器上の kobo アプリでも、もちろん、kobo 専用機でも読める。




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[Kindle 版]
Cloud Busting: Puffin Poetry (English Edition)
Blackman, Malorie
RHCP Digital
2011-10-31


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[日本語訳]
雲じゃらしの時間
マロリー ブラックマン
あすなろ書房
2010-10T



三宅 乱丈『イムリ 3』(KADOKAWA. 2011)
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(承前)ふたご星マージとルーンが舞台。マージ星を現在支配している民族カーマと、奴隷となっている民族イコル、さらにカーマの故郷ルーン星の原住民であるイムリ、計三つの民族が登場する。カーマは4000年前の戦争で凍りついた母星ルーンを離れ、隣星マージに移り住んだ。マージ星の呪師候補である主人公デュルクは、研修旅行でルーン星を訪れたおり、軍事系のルーン大大師バニエストクらによるクーデターに巻込まれ、ひとりルーンの辺境をさまようことになる。

 マージ星では、デュルクの母ピアジュが息子の運命を夢で知り、それを呪師衆から隠すため、自らの命を絶った。呪師たちはルーンで何か起こっていると騒然となる。

 一方、デュルクは旅のイムリに助けられ、イムリ大陸の地下にある穴を通って逃亡する。その穴は氷河期の氷が解けてできたもの。デュルクはその冷たい水たまりに過って落ちてしまう。体を暖めるために、石を友達として仲良くする方法をイムリに教わる。それは石の光彩を自分に共鳴させる方法だった。これは応用がきき、たとえば、水を出したいときは土と共鳴させればよい。このようにして、デュルクはイムリの術を少しずつ覚えてゆく。イムリの術は星と仲良くするための術なのだ。その媒介となるのが光彩だ。それに対して、カーマには星があまり力を貸さない。

 ルーン星は今や賢者を始めすべてがバニエストクらの管理下に入る。バニエストクはマージ星の呪師たちに対し、秘密を明かさなければ、人質にとった呪師の家族の命はないと迫る。事態はいよいよ急激に頂点に向かうのか。果たしてルーン星の支配権はどうなるのか。緊迫の場面が展開する。

 本巻では多くの秘密が明かされ、その裏にある民族間の憎悪の歴史もまた明らかになってゆく。SF作品としては珍しいくらい密度の濃い感情がうずまく。


イムリ 3 (ビームコミックス)
三宅 乱丈
KADOKAWA
2012-09-01



川本皓嗣『アメリカの詩を読む』(岩波書店、1998)

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 19~20世紀のアメリカの詩19編をまことに丁寧に読み解き、同時にそれらの詩の周辺の文学事情をも明快に説いた書。「入門書」としても読めるし、専門家が読んでも有益だろう。取上げられた詩人はポー、ロングフェロー、ホイットマン、ディキンソン(2編)、パウンド、フロスト(2編)、エリオット、スティーヴンズ(2編)、カミングズ、ウィリアムズ(3編)、ローエル、クリーリー、スナイダー、アシュベリー。

 1993年に岩波市民セミナー「アメリカの詩を読む」で話された4回のセミナー、および東京大学大学院総合文化研究科の比較文学比較文化専攻の番外授業で話された1回の内容をまとめ、加筆し、再調査し、原詩と和訳をすべて添えた本。口頭で話したものをこの形にするのに5年かけたという良心的な書。

 内外に、ここに取上げられた詩や詩の潮流についての論考・研究は数多いけれども、本書にしかない、まことに貴重な論考がある。その本書の最後の詩について述べたい。

 ニューヨーク派の詩人、ジョン・アシュベリ John Ashbery (1927-2017)の詩「若い王子と若い王女」 'The Young Prince and the Young Princess' だ。アシュベリは20世紀後半を代表する詩人と目される。きわめて難解な詩をかきながら、評価はどんどん上がっているという不思議な詩人。抽象表現主義の絵画のような、表面を最も重視する前衛的な詩風ながら、その前衛性が正当に理解されている稀有な詩人。

 この詩はアシュベリの詩集には収められていない。ドナルド・ホールのアンソロジーに収められているのみ。にもかかわらず、この詩を好む人は多い。だが、本格的な研究は殆どない。

 川本皓嗣はこの詩について、アシュベリの詩学をきちんとおさえつつ、その詩的技巧のかなりの部分をふまえつつ、1連ずつ丁寧に読み解いてゆく。ここまで精細に分析したものは世界でこれだけだと思う。

 題名に窺われる、おとぎ話のような、あるいはバラッドのような、幻想性に満ちた物語が、構造的に完成しているにもかかわらず、具体的に何について語られているのかはさっぱり分らない、つまり外部にある何かを指し示すことなどまったくない、自己完結した詩的言語芸術の宇宙。いわば、「宙に浮いたバラッド」だ(評者の造語)。この浮遊感、手ごたえをともなった幻視の世界は非常に魅力的で、わけがわからないにもかかわらず多くの人を惹きつけてやまない。

 評者の耳は、ここでは分析されていない子音韻のあまりに豊穣な響きに圧倒されているが、それ以外に、第二次大戦後のある時期からひそかに始まったポスト黙示録的な芸術の流れと同質のものも感じてしまう。つまり、核の冬(あるいは大変動後の地球)を生きのびる人々の荒涼たる生と、その彼方に射す光の世界だ。たとえば、コーマック・マッカーシーの小説『ザ・ロード』(2006)や、フランシス・ローレンスの映画「アイ・アム・レジェンド」(2007)などの世界だ。

 アメリカ詩について、読み解きたいと願う人なら一度読んで損はない本だ。




坂木 司『青空の卵』創元推理文庫、2006

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 必ずしもぜんぶ趣味が合うというわけじゃない。

 が、合う部分はかなり合う。例えば。ミルク3分の1の濃い目のミルクティー。これは作中人物、鳥井真一の紅茶の淹れ方の好みだ。それからフレドリック・ブラウン。これは作者坂木司(この筆名は本作の登場人物からとられている)の好みらしい。ブラウンは創元推理文庫から出てたのはおそらくぜんぶ読んだくらい好きだ。

 鳥井は俺は、見えないものを無いものとして扱うことはできないという。見えないものを無視せず誠実に生きるのは、現実にはかなりきびしい。だけど、それをやってのけるだけの強さが鳥井にはある。この強さを発揮すれば世間とはおそらく合わなくなる。

 そんな彼がいろんな事件の謎解きをする。見えないものが存在する以上、そこには原因があるの信念を貫くからこそできるわざだ。繊細な感性に裏打ちされた、ねばりづよい頭脳。

 本書は「ひきこもり三部作」の第一作で、鳥井とその友人坂木が登場する短編が五つ集められている。中でも、盲目の青年、塚田基をえがく「秋の足音」が秀逸。目の見えない人の世界がどれほど豊かなのかを、その襞にわけいるようにしてえがきだす。この筆力には脱帽する。こうやって、作品ごとに、これまで知らなかったいろんな引出しをつぎつぎに開けてくれて楽しい。なお、評者が読んだ電子書籍版には北上次郎の解説は収録されていない。


青空の卵 (創元推理文庫)
坂木 司
東京創元社
2006-02-23




[Kindle 版]


アン・クリーブス『青雷の光る秋』(創元推理文庫、2013)

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 <シェトランド四重奏>(Shetland Island Quartet)と呼ばれる、アン・クリーヴズの犯罪小説シリーズの第4作(2010)。このあとに Dead Water (2013) が出ている。第5作以外は創元推理文庫から玉木亨訳で出ている。訳文は申し分ない。長旅などに持ってゆくにはもってこいの読みごたえのあるミステリだ。島で突然おきる殺人事件の謎にたちむかうペレス警部が主人公。

 シェトランド島はスコットランド北東にある島で、シリーズの本作以外はそこが舞台だ。本作だけが、シェトランド島の南にある離島、フェア島を舞台とする。Fair Isle (フェア島)の綴りをみると英語の fair に関係があるように思ってしまうが、実際には古期ノルド語に由来し、「羊の島」の意らしい。

 シェトランド島は北欧とスコットランドの両方の伝統文化の要素がある島として知られ、音楽伝統の面でシェトランド・スタイルのフィドルが非常に有名だ。名フィドラーのアリ・ベーン(Aly Bain)は日本でもファンが多い。

 本書は、そんなシェトランドの伝統文化の香りをちりばめつつ、第5章にはいると急に不穏な空気がただよいはじめる。あたかも激しくなる嵐に呼応するかのように。そこから徐々に不穏さは増してゆき、ついに第36章あたりから急加速し、衝撃的な展開をする。

 見どころは、天候悪化により本島と隔絶され、科学捜査や大規模捜査ができない中で、たまたま帰郷していた警部が単身でねばりづよく進める捜査と、珍しい渡り鳥を求めて島にやってくるバードウォッチャーたちの一種異様な心理との、からみだ。約450頁あるが、登場人物たちや風景を丁寧にえがいて、まったく飽きさせない語りは見事という他ない。


青雷の光る秋 (創元推理文庫)
アン・クリーヴス
東京創元社
2013-03-21



岡崎 琢磨『珈琲店タレーランの事件簿 2 彼女はカフェオレの夢を見る』(宝島社文庫、2013)
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  帰ってきました。あのぎこちない文体が。
 第1作『珈琲店タレーランの事件簿 また会えたなら、あなたの淹れた珈琲を』でそれがやみつきになった読者は、しかし、これがいいと思う。24歳のバリスタ切間美星は今回はどんな活躍をみせるのか。

 語り手アオヤマは少し年下。本作では美星の妹、美空が夏休みを利用して京都にやってくる。

 全部で7章からなる。前半の3章は前作のように、いろんな小さな謎を美星が解決するという、どちらかといえば地味な話。

 ところが、第4章「珈琲探偵レイラの事件簿」から急に加速して、雰囲気が緊迫してくる。そこに妹の美空が大いにからむ。

 最終的には京都の地理を活用したダイナミックな展開となる。本書冒頭に京都の地図が2枚ついていて参考にはなるが、最後の車の移動の場面では肝腎のところが役に立たない。致命的な欠陥は地図に鞍馬口通(東西の通りで、北大路通の南にある)が記されていないことだ。この知識がないと328ページの話は地元の人でもないかぎり訳が分らないと思う。京都では東西であろうが南北であろうが「通」を使うので、きちんと書かないと、地名を知らない人には分らない。

 トルコの諺「一杯のコーヒーにも40年の思い出」は、ささやかな親切でも、受けた側は長い間忘れられないことを表す。いいことばだ。美星と美空をめぐる、ある大きな謎も、そのような余韻をのこす。



[Kindle 版]