蒼い森 Caol Áit

Brief description of Not Out on Interest: David in Canto 74 –

Pound gives us the sense that he picked up where the Psalmist left off. With regard to David the Psalmist, there remains an unsettling, tantalizing passage in "The Pisan Cantos."


        to redeem Zion with justice

sd/Isaiah. Not out on interest said David rex

                                                 the prime s.o.b.


In this unique parallelistic structure we try to unravel the inner workings relevant to the original Biblical contexts from which these phrases are taken, taking into account the Bible versions Pound might have used.


The theme of justice and interest, apparent in this passage, which has long attracted Pound will be examined, drawing comparison with a Japanese Confucian Aizawa.
 

(Author's notes) This book has never been published before. Rare glimpses into Pound's knowledge of Hebrew language and scripture.

(sample page of iBooks ed.)

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上橋菜穂子、チーム北海道『バルサの食卓』新潮文庫、2009)

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 気になる本へ接近するため人はどんな方法をとるだろうか。

 もちろん、基本はその本を繰返し読むことだろう。つぎにその作者の他の著作が読めればそれを読むことも助けになることがある。その本についての評論を読むことも可能かもしれない。

 ここで考えてみたいのがそういうテクスト本位の方法でなくいわばテクスト外の方法である。たとえばその本で描かれた舞台を実際に訪れてみるなど。その場所が現実世界である場合に限定されるけれど。

 もうひとつ、本書が採るような食を通じた接近がある。作品の登場人物が飲食するものを摂る方法である。やったことのある人は少なくないだろう。いわば作品の一部を生身で直接知ることができる貴重な機会である。旅行などをせずとも食材をそろえ料理する意欲さえあれば巧拙はともかくとして誰でもできる。

 本書が対象とする上橋菜穂子の「守り人」シリーズなどの、特にバルサを唸らせたような料理は、ファンなら一度は食べてみたいと思うのではないだろうか。そういうファンの思いに十分こたえる書になっている。

 まず、料理の写真がきれい。文庫だけどカラー写真でいかにも旨そう。その料理が出てくる作品箇所の引用、作るための材料とレシピはもちろん附いている。食材は日本で手に入るものにアレンジされている。


 私がいちばん興味深く思ったのが上橋菜穂子による、各料理へのコメント部分である。世界各地での体験をふまえた1〜3ページの文章である。そのなかに意外なコメントがあり作品へぐっと近づくヒントになっている。

 たとえば「タンダの山菜鍋」(上掲写真の上から2つ目の料理)について上橋はこう書く。

私自身は、ジェンダー(社会・文化的性差)の逆転なんぞまったく考えもしないでバルサとタンダを書いていた……。ついでに書いてしまえば、精霊の卵を宿したのが男の子だったことも、これまた別に、ジェンダーで考えたことではありません。


食の本におそらく合わない作者のジェンダー論が「ついで」書きとして紛れ込んでいるのは読者には望外の収穫である。

 もうひとつ、「ラコルカ」について。「ラ(乳)の中にコルカというよい匂いのするお茶の葉を入れた」飲み物。本書ではプーアル茶によるレシピになっている。それについて上橋はこう書く。

中学の頃にイギリスの児童文学と出会い、その豊潤な世界に魅せられた私は、いまでもコーヒーよりは紅茶を、そして、紅茶ならミルクティを好んでいます


 ちなみに、作者が研究調査に赴くオーストラリアではホワイト・ティと言うことが多いらしい。そこでのティについてはこう書く。

私がフィールドにしている地方の町では、たいがい、でっかいマグカップに、表面張力を試しているかのようにダボダボと紅茶をつぎ、牛乳をそそぎ、渡してくれます。


こういう文章を読むと訳もなく嬉しくなってくる。ただし、ここには小さな矛盾がある。牛乳は最初にそそぐに違いない。でないと、あふれる。


 

上橋菜穂子『鹿の王 (下) ‐‐還って行く者‐‐』KADOKAWA/角川書店、2014)

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 上巻が「生き残った者」、そしてこの下巻が「還って行く者」。その意味が読み終わってやっとわかった。

 身体を森とみなし、その中でさまざまの小さな命が生きており、それらをつないで大きな命を生きているという生命観。

 そこへ病の素がやってくると身体の中の小さな命はあるいは戦い、あるいは共生する。命を落とすものもあれば「生き残る者」もある。そういう世界を、病を生きる男ヴァンと病を癒す男ホッサルとを二大中心にして描いたのが上巻だった。

 下巻ではその二つが交わり絡み合う。ヴァンは体内に抱えた病素を生かせる場へと「還って行く者」となる。ヴァンはもともと命をすてた死兵の集団「独角」の頭だったのが、体内に入った病素によって変えられてゆく。

 医術師ホッサルと助手ミラルのカップルが医学の道を追求するとすれば、戦士ヴァンと狩人サエはこの世をまるで獣道のように駆け抜けてゆく。どちらのカップルもクールだが、何といってもヴァンのいさぎよい生き方には魅了される。

 体の外と内との両面にわたる緩急自在の運びのなかで、著者の深い思索に裏打ちされた豊かな物語世界が、読者の心に、静かに広がってゆく長い余韻を残す。


鹿の王 (下) ‐‐還って行く者‐‐
上橋 菜穂子
KADOKAWA/角川書店
2014-09-24

 

上橋菜穂子『鹿の王 (上) ‐‐生き残った者‐‐』KADOKAWA/角川書店、2014)

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 著者三年ぶりの長篇小説。

 構想が生まれたきっかけは一冊の本だったという。フランク・ライアンの『破壊する創造者』。ウィルスがいかに進化に深く関わるかを研究した本。

 その本を読んだ夜、犬に噛まれてウィルスが体の中に入った男の夢を見たという。「目が覚めた瞬間、ウィルスのせいで体が変わっていっちゃう男のイメージが浮かんで、それを同じように噛まれたチビの女の子が”お父ちゃん、お父ちゃん”って引き留めようとしている光景が見えた」と著者は語る(「本の旅人」2014年10月号)。

 物語が生まれる時は、いつも、ひとつの映像が浮かぶと。『精霊の守り人』や『獣の奏者』を書いた時もそうだったと。これから描かれる物語のすべてがすでに含まれているのだと著者はいう。この小説は「人間もまた一個の生き物であるという視点から命を問い直す」物語であるとは著者のことば。

 複雑な物語だと聞いていたのでノートを取りながら読んだが、上巻が読み終わるころ、やっと気づいた。複雑なのは物語でなく、病の諸相なのだと。「病とは何であるのか、まだ知らない」ということばが重い(561頁)。

 薬が三種類に分けられるが、現代の用語でなく、本書のファンタジー世界の独特の用語になっている。「弱毒薬」はワクチン、「抗病素薬」は抗生物質と解釈して読んでいる。もうひとつの「血漿体薬」というのは現代でいうと何なのだろう。抗血清のようなものかもしれない。

 上巻は、未知の病とたたかう医療冒険小説のように思える。ヴァンとサエとホッサルと。活躍する人たちの像がすでに浮かぶが、下巻がどんな世界を見せてくれるか。


鹿の王 (上) ‐‐生き残った者‐‐
上橋 菜穂子
KADOKAWA/角川書店
2014-09-24

 

Caladh Nua, Honest to Goodness (CN003, 2014)

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 素晴らしいアルバムだ。アイリッシュ・ミュージックが好きなら即買い級といえる。

 アイルランド南部のバンド Caladh Nua の3枚目のアルバム。これまでの2枚も素晴らしいアルバムだったが、今作はさらに輪をかけていい。器楽曲も歌もノリにノっている。

 一聴したところは相変わらず控えめで落ち着いた感じだけど、よく聴くと随所にミュージシャン好みの仕掛けが満載で、唸らされる。

 一言でいって伝統色が強まった。にもかかわらず、音楽的な実験や冒険が隠し味として含まれており、現代的なスリルも感じさせる。

 どのトラックもいいけれど、歌のほうは Lisa が地元の女性の歌で覚えたという 'Lady of Loughrea' が絶品。無伴奏歌唱で始まり、最小限のギター伴奏のみで唄われる。この歌は他では聴いたことがない。

 器楽曲ではノヴァスコシアのフィドラーの曲 'Princess Florence's Jig' での Paddy のヴィオラが素晴らしい。

 録音は彼らの地元のウォータフォード県のアン・ライン(An Rinn)にある Clancy Studios でとられている。音質が抜群。

 私は数年前に彼らをキラー二(アイルランド南部)のコンサートで見たことがあるけれど、その時に比べてさらによくなった。今後も、彼らの音楽が楽しみだ。

 なお、このアルバムは Claddagh Records などで入手できるほか、デジタル・ミュージックの配信でも手に入る。



 

Brief description of Parallelism in Pound:

When Gerard Manley Hopkins claimed that parallelism was the basis of poetic structure, the models of parallelism he had in mind were, presumably, those of Robert Lowth as applied to Hebrew poetry: synonymical, oppositional, and synthetic.  Those models served their own purposes, but recent studies of Hebrew poetry have added significant new models.  They will be verified here by applying two of Adele Berlin's models, based on Roman Jakobson, to Ezra Pound’s poetry: bidirectional and syntagmatic.


By applying the second model to "In a Station of the Metro," the reading whereby paradigmatic word pairs can become syntagmatic ones will be suggested.  


By applying it to the metamorphic passage in Canto 29 where metaphor and metamorphosis concur, the possibility of parallelism that is both paradigmatic and syntagmatic will be pointed out.


Starting from suggestive hints by Frye and Rodger, I try to demonstrate in this book that Hopkins' insight into the basic structure of poetry is valid for Pound's poetry, by incorporating parallelistic models gleaned from recent biblical studies.  Of equal significance is the fact that it proves a source of fresh readings to come.

(Author's notes) Parallelism can be shown both in shorter poetry and in longer poetry by Pound. This approach transcends, in a way, the usual setback when one tries to analyse poetry in translation, as far as sense, not sound, is concerned.

(sample page)
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Parallelism in Pound (English Edition)
Eiichi Hishikawa
Stiúideo Gaeilge
2016-09-28


iBooks ed. also available 

上橋菜穂子『月の森に、カミよ眠れ』偕成社文庫、1991; 2000)

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『精霊の木』につづく上橋菜穂子の第二作。日本古代が舞台のファンタジーである。第25回日本児童文学者協会新人賞(1992年)を受賞している。

 祖母山(宮崎県)の「あかぎれ多弥太伝説」(武田清澄著『日本伝説集』)に基づく。蛇ガミと娘の婚姻譚である。

 著者に影響を与えたのは、ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff, イギリスの歴史小説家)による歴史物語の、歴史的なものの見方、過去の物語をリアルによびおこすやり方、およびルーシー・M・ボストン(Lucy Maria Boston, イギリスの児童文学作家)、トルキーン(トールキン)。

 著者の文化人類学者としてのフィールドワークはオーストラリア都市部で白人とともに暮らすアボリジニと文化の変容である。

 「闇の中、ホタル火色に燃えあがる、おそろしくも美しいカミ」(5頁)がリアル。おそらく、まったく関係ないが、池田澄子の代表句「じゃんけんで負けて螢に生まれたの」には、この美意識と通底する感性があるかもしれない。

 山と里、アワやヒエと稲、カミとオニ、ムラと都、川と結界、女と月、闇と光、等々さまざまに考えさせる種を含む。

 語りがやや錯綜し、判りにくい面があるが、タヤタ(蛇ガミ、多弥太)の存在感は圧倒的である。



 

上橋菜穂子『精霊の木』偕成社、1989)

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 感動の傑作。作者の児童文学作家としてのデビュー作。

 地球人類に滅ぼされた先住民族ロシュナールの魂と合体する精霊を生み出す精霊の木をめぐる物語。

 これを書いたとき、作者は沖縄でのフィールドワークの経験しかない大学院生だった(立教大学大学院、専攻は文化人類学)。神の依り森・御嶽(ウタキ)の横を歩きながら、<精霊>の概念を思いついたと初版あとがきにある。

 執筆当時はSFとして書かれた。環境調整局がナイラ星にはりめぐらした監視網は現実の地球において絵空事とも言えない。

「その頃心の中にあった思いやアイディアを全部ぶちこんで書いた物語」だと作者は語っているが、そうして書上げた原稿を読んでもらえないかと偕成社に電話をかけたとき、心臓は破裂しそうだったという。

 作者が<精霊>の概念を思いついたという御嶽(ウタキ)には、私も行ったことがある。斎場御嶽(せーふぁうたき)にも、またあの首里城にも、拝所(ウガンジョ)があり、観光コースからは外れていて、祈りの聖地として今も知る人ぞ知る場所に厳然と存在する。結界があり、そこへは入ってはいけないことは地元の人は知っているが、しばしば知らない人が足を踏み入れたりする。

 本書はSFながら、もの凄い存在感がある。ある意味でリアリティがあるといってもいい。このような書と出会えたことは幸せだ。


精霊の木
上橋 菜穂子
偕成社
2004-05-25

 

『ショーン・オフェイロン短編小説全集〈第3巻〉』(新水社、2014)

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 これほど自国の伝統を嫌う「愛国的」作家は見たことがない。

 ショーン・オフェイロンの手にかかると、アイルランドの理想化された伝統が丸裸にされ、惨めでじめじめした貧相な姿が浮かび上がる。しかし、それにもかかわらず、読者はこの作家が、そういうアイロニーを交える仕方によることで、うすっぺらな「愛国的」表現を避けることに成功し、独特の深い味わいのある作品を作り出しているのだと気づく。

 そのゆえに、オフェイロンの立場は「修正主義的」(revisionist)歴史観だと評される。そのことは本作「祝婚歌」でも一見すると明らかである。

 この題名を見れば、英文学史上に名高い別の「祝婚歌」を思い浮かべるひとがあるだろう。アイルランドの真性の敵であったエドマンド・スペンサーの詩である。

 ただし、よく考えると、すでにそこにアイロニーが働いている。スペンサーの詩が 'Epithalamion' という語を用いるのに対し、オフェイロンは 'Hymeneal' の語を用いるからである(どちらの語も「祝婚歌」の意)。

 これはどういうことなのだろう。つまり、一見して同じ主題を扱い、「反アイルランド的」スタンスを連想させながら、最後まで読むと屈折したアイルランドへの愛が感じとれる。そういう仕組みになっている。

 この中篇小説はダブリンに暮らす二組の老夫婦をめぐる物語である。主人公フィルは学校視学官で、まもなく退職をむかえる。妻のアビーには妹のモリーがいる。モリーの夫フェイリーは文部大臣で、フィルの上司にあたる。

 退職後の生活について、フィルは妻にアイルランド南西部のクレア県の田舎家へ引っ越す計画を打ち明ける。そこで悠々自適の生活を送り、憎き上司フェイリーの内幕を暴く本を書くための暮らしをするというのである。

 それを聞いた妻アビーの反応は複雑である。今までシャノン川(アイルランド中央を流れ国土を二分する川)より西へ行ったこともない自分に都会以外の生活ができるのか。それに、憎しみを晴らすことを余生の目標とする夫の生き方はどうなのか。

 案の定、クレアに引っ越したあとの生活はみじめである。夢が実現した喜びにあふれるどころか、夫は生き生きと語っていた予定に反し、むっつりと沈黙を続け、妻は気が晴れるところがない。誰も知り合いもいない。

 そんなある日、夫妻の運命を一変させるできごとが起こる。そのあとの結末までの凝縮した時間の流れは、アイルランド散文文学史上でも屈指のものであろう。主人公が自己像を「冷たい本質で満たされた怒れる男」('an irate man full of cold principle')へと修正するに至る劇的な事件が起こる。傑作である。

 本書はこのほかにも、印象的な「愛らしい娘」('A Sweet Colleen')や「太陽の熱」('The Heat of the Sun')などの短篇小説を含む。



 

 雪景色を見ると、ショーン・オフェイロンの短篇作品「壊された世界」 ('A Broken World', 1937) を思いだす。オフェイロンの代表作である。最高傑作という人もある。

 日本語訳が風呂本武敏・風呂本惇子訳『現代アイルランド短編小説集』(公論社、1978)に収められていたが、やや入手困難。幸いに今は本書、風呂本武敏監訳『ショーン・オフェイロン短編小説全集〈第2巻〉』(新水社、2013)に収められたものを読むことができる。

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 原文のほうはといえば、高名であるにもかかわらず、手に取るのが難しい。いちばん手に入りやすそうな The Collected Stories of Sean O'Faolain (Little Brown & Co., 1983) でも入手困難。

 短篇の王国であるアイルランドの20世紀を探求しようとするひとにとって厳しい現状だ。

 ともあれ、本作の「壊された世界」が、アイルランドのいわゆる「麻痺」(paralysis) の表現を探すときに、最良の実例のひとつであるのは疑いない。

 物語はアイルランド東部を走ると思われる汽車に乗合わせた三人の会話により展開する。中心人物はウィクロー県のカトリク司祭。主な話し相手が語り手の「私」。時折あいづちをうつのが農夫。

 彼らはアイルランドの現状について議論する。土地による貧富の違い、文化の違い、不在地主アイルランドに住まず小作人から地代を取立てるイギリス人)の問題などを歯に衣着せず語り合う。

 議論が白熱し、一時はその熱により三人の間に「仲間意識」のようなものまで生まれる。

 しかし、「仲間意識」を見てとった語り手の目はおそらく節穴だった。やがて、三人がそれぞれの駅で降りるにしたがい、実はばらばらであったという冷厳な事実がつきつけられる。

 時あたかも雪が降りしきる天候。そのなかで、語り手はしみじみと述懐するのである。

アイルランド全土を覆うあの白い帷子(かたびら)の下では、人生は打ち壊されてほとんど息絶えだえに横たわっているのだということを否定できなかった。……朝になっても、アイルランドは雪を被り、永久に暁のままであるように沈黙を続けるであろう。(129-130頁)


この表現 'under that white shroud, covering the whole of Ireland, life was lying broken and hardly breathing' が、ジョイスの名作 'The Dead' の雪の描写とともに、20世紀のアイルランドの印象的なイメジを成している。