蒼い森 Caol Áit

 NUIG の夏期アイルランド語研修について Twitter に書いた。

Hooker_NUIG

Hooker [source]

ゴールウェーのフカー帆船 

 6月の土日は京都にこもってアイルランド語研究会で17世紀のアイルランド語を読んでいた。その中で発見したことがあるので書いてみる。

・基本に忠実に
・文脈から読む
・名詞と動名詞

基本に忠実に

これは読んで字のごとくで、特につけ加えることもない。つねに初心に還る。

私たちの場合だと、出発点はアイルランド西部のアイルランド語文法なので、その基本に立ち帰る。

この姿勢は、時として途方にくれるような場合に、突破口を開いてくれることがある。虚心坦懐に見つめる。見えるものをそのまま受取る。ちょうど妖精をみる老人のように。向こうからは見えているのだ。見えないのはこちらの目の問題。

文脈から読む

端的に言うと辞書をあまりに頼りにしない。もちろん、可能な限り、すべての辞書や文法書にはまず当たる。それでも推測がつかない場合のことだ。

そもそも、17世紀のアイルランド語にドンピシャの辞書や文法書があるわけでもない。必然的に、現代アイルランド語や古アイルランド語といった、側面からのアプローチになる。周辺から攻めて行ってどれだけ推理力を発揮できるか。

文脈をじぃっと見る。すると、こういう意味や用法としか思えないという姿が浮かび上がってくる。あとは、それを裏づける記述を辞書や文法書で、それがあるはずだという目で探してみる。たいがい出てくる。出てこなくても、それを最良の推論としておけば、いつか解がみつかることもある。

名詞と動名詞

明らかに名詞であっても、それを動名詞と解釈するほかない場面は実は多い。そんなときに名詞だからと動名詞と見ることを尻込みする必要はない。

よく調べると、名詞が動名詞に由来していることも少なくない。

だから、動名詞として辞書に記載がなくとも、文法的に動名詞の役割がぴたりとはまるならば、その可能性は排除しないほうがよい。

LunchCamphora

某大学の生協がやっているレストランは日曜も開いていた。今日のランチ594円。ハンバーグとサラダとポテト、スープ、ライス付き。

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 記念に、今日、最後に分かって疲れもふっ飛んだ文を書いておく。

Óir ní bhiadh ar súil-ne ré sochar ná somhaoin dár rochtain féin, ar siad, dá ndeachmaois do chathughadh ré Dál gCais .i. an cineadh is cródha 7 is calma i gcath láithribh; 7 an cineadh fós nár theith ré Lochlannchaibh riamh, is deimhin nach teithfidís romhainne acht mar sin.

(大意) 「というのも、我々が見込む財や富が我らのもとへ達することはないでありましょう」と彼らは言った、「もし我らがダール・ガシュと争いになれば、すなわち、戦場でこの上なく勇敢で強いダール・ガシュと争いになれば。さらにダール・ガシュはヴァイキングを相手にして逃げ出したこともなく、また実に我らを相手にして逃げ出したこともないのであります」。

 ダール・ガシュは10世紀にアイルランド南部で強大であった一族。

 ウルフという神学者が「うすい場所」を体験したことを書いている。この神学者は文章が抜群にうまく、神学の思想も深く、親しみやすく、おもしろい。ちょっと稀有な霊性研究者かと思う。

 カナダでそういう場所のことを知っていたと書いている。いまいるこの世界と異界との膜が非常にうすく、一歩進んだだけで行き来できるような場所のことだ。彼女が書くことは精妙な体験の話なので文体がすべてだ。この文体のひだに秘密がかくされている。

 ケルトの伝承についてふれたのが次の箇所だ。

The Celtic tradition had a phrase for it (Celtic tradition would, of course!): it call places like this "thin places," or so I've been told. There are spots where this world and the realm of the spirit come close together, some claim. That may be; or it may be that there are some places, like some chords in music, that evoke something spiritual in people, as the smell of burning leaves can bring back childhood to many of us; and that some places have more of that power of evocation than others. Whatever. I don't know, and I'm not sure it's all that important anyway. Even if scientists could pin down the loci of the brain centers involved and isolate the requisite stimuli, would it really make any difference?

 非常に正直なことに、そういう場所がなぜそういう場所であるかは分からないと書く。仮にそういう状態について脳科学的に説明がついたとしても、それが何の違いがあるかとも。

 彼女が知るこの場所は、ある敬虔な女性と結びついていた。その女性は神への信仰がふかく、この松林の中で聖母と出会っている。そこでウルフはその女性を知る神父に訊く。聖母はもとからこの場所にいたのか、それともこの女性の祈りが聖母を引き寄せたのかと。神父はもとから聖母がここにいたと応える。

I was talking about all this to an old priest who lives here, one who'd been close to the holy woman and had known this place almost from the first days of the community. I asked him the tree-falling-in-the-forest question: did that woman find Mother Mary already here in the woods, or did her prayers bring Mother Mary here? Mary had always been here, he said; the woman had only named her and had taken root here because of Mary's presence. Question answered.

 この問答は、ある場所の聖化あるいは聖性について興味深い示唆を与えてくれる。

 どうやら、地球上の場所に関しては、特異点のような聖なる場所があるのかもしれない。

 ここで終わっていればある意味でふつうだが、ウルフはさらに考えをすすめて、われわれ自身がそういう「うすい場所」となることができるのではないか、と書く。ウルフがそう考えた理由は、そういう人物を何人も知っていたからである。神父もその一人だ。

A more radical thought: maybe we could work on becoming ourselves the thinnest places we can manage to be. Not thin in the sense of meagerness, as fashion models are thin--in fact, now that I think about it, the "thin place" people I know are as often as not quite comfortably upholstered--but thin in the sense of transparency: being as full as we can hold of the love of God, and leaking it like crazy. Highly permeable membranes. The priest himself was like that; he leaked a deep and quiet peace.

その人の存在そのものから深く静かな平安が漏れ出すような、そういう人物。神と人との間にあり、自らを透明な膜と化したひと。その膜を通して神の世界と人の世界の行き来が可能になるような人物。

よく考えてみると、これは神秘主義でもなんでもない。ごくふつうの神学的思想だ。

ThinPlace_Wolf
 

 Caol Áit のことを調べていて神学者 Molly Wolf の文章に出会った。

 さらに、ウルフの本に引かれていた次の詩に惹かれた。

Learn what you must learn,
Go where you must go;
When you stop running, stand still,
Listen, you will know
That you can find God where you are
Hiding in plain sight.

– Deborah Griffin Bly

[cited in 
Molly Wolf, Hiding in Plain Sight: Sabbath Blessings (Collegeville: The Liturgical P, 1998)

 上記のウルフの文章 'Thin Place' は実にすばらしい。神学者がケルトの伝承のことにふれ、かつ自分自身の類似した体験を語る。稀有な文章だ。

 カナダにもそういう場所があるのか。

 いや、それだけでなく、そういう場所とそういう人があるという。ウルフの言葉では '
the thin-place places and the thin-place people'  ということになる。

 つまり、場所だけでなく、人もそういう存在になり得るということだ。このことの衝撃は大きい。 

 そもそもウルフの文章に気づかせてくれたページにあった Celtic cross を掲げておく。

 celtic_cross

 今回も多彩な顔ぶれだった。

 日本人以外にタイ、ベトナム、ペルー、およびルーマニアからの参加者が英語で議論した。学部、大学院、留学生、教員と立場も多彩。

 議論は詩の翻訳についての講義に続いて行われた。講義内容は俳句の英訳・アイルランド語訳・スコットランド英語訳をめぐるもの。

 ただ、ひとりだけ発言が全く理解できない人がいた。質問があるということは分かったが、その内容が一言も聞き取れない。知っているどの言語とも似ていない。あとで書いたものを見ると英語になっている。なぜ理解できなかったのか。他の人も理解できなかったと言っていた。おそらく発音の体系が英語のそれになっていなかったのだろう。特に強勢の位置や子音の発音やイントネーションが、全く英語に聞こえなかった。

 世界語としての英語の課題からは考慮すべきものかもしれない。しかし、ロゼッタ・ストーンでも何らかの手がかりはあった。今回はなかった。spoken language の難しさを感じた。

 話しことばの場合、まず何について話しているのかを相手に分かってもらうことが必須だ。

FunToTalk
 

 Order matters.(順序は大事)

 しかし翻訳で順が変わることがある。

 詩としては別物になる。

 受取る読者は翻訳のみを見る。

 問題は三点はある。

1. 翻訳はいかなる意味の詩なのか
2. 原詩の何を重視すべきか
3. 註釈・説明の付加はどうすべきか

 1.はこの場合、翻訳詩を俳句と呼べるかどうか。テクニカルには俳句と呼べない。英詩のジャンルとしてのhaikuでよい。季語、切字、上五中七下五の順、二分割等々が遵守が困難な場合は特にそう。しかし、同じくらいテクニカルに切り返せば、季語以外(詩の構造に関わるところ)は翻訳技術で解決可能。特に詩の終わりの句読点は必須と考えるべきだろう。

 2.は翻訳者が決すべきこと。論理や情報より感情の方を重視すべきとは思う。写生句で風景情報が重要という立場もあり得る。しかし、基本は詩人が感じた感動の本質を伝えるものでなければなるまい。

 3.は可能ならあるのが望ましい。しかし、元の俳句でも必ずしも完備していない。文化間のギャップを埋めるような必要最低限はほしいけれども。

 001

 上の例では上五が最後に移されている。しかも前行のコロンの後に。これでは 'an old pond' は位置情報を与える附加的なものに堕してしまう。

The explorers who had visited the place before us called it "The Cathedral", it was easy to see why. | midoriiro | Pinterest

 オランダの森。'The Cathedral' と呼ばれる。

 カテドラル(大聖堂)の呼称はふしぎでもない。

 そもそも、ステンドグラスは木洩れ日をかたどったといわれる。

 シェークスピアの有名なソネット73番をエンプスンが分析したことが想起される。 

 しかし、いかに聖なる空間を建物の中に構築したとしても、一歩外に出れば、違う種類の聖性がそこにあるかもしれない。

Cathedral_Holland
 

 caol áit はアイルランド語として変わったつくりをしている。そのことについて Twitter でいろいろ書いた。





 語義の中に graceful「優美な」「優雅な」「奥ゆかしい」があるのが面白い。
 
caol-_Dinneen
 [Dinneen source]

 アイルランド語で caol áit という言葉がある。

 文字通りには「狭い場所」の意味だ。あるとき、次のような文章にPinterestで出くわし、興味を惹かれた。

One Irish legend goes that at any given point in time, the veil between Heaven and Earth is three feet wide. The legend goes on to say that there are physical mystical places and personal experiences we go through where that veil is thinned and the holy becomes ordinary and the ordinary becomes holy. These places are called Caol Áit, or "thin places"

  これによると、あるアイルランドの伝説では、どの時点でも天と地の間のヴェールが3フィートの幅であるという。約90cmだ。

 さらに、ある神秘的な場所や個人の体験によっては、そのヴェールが薄くなって、「聖」が「俗」となり、「俗」が「聖」と化すという。 この種の場所のことを Caol Áit 「薄い場所」と呼ぶと。

 もともと、この文章に出会ったのは、それが附けられていた森の写真がきっかけだった。次の写真だ。
 
Forest_ThinPlace

 確かにこんな森の中では天と地の境が薄い場所があってもおかしくないような気がしてくる。

 このブログを始めたのは、 Caol Áit について書きたいと思ったからだ。