蒼い森 Caol Áit



 TG4 (アイルランド語TV放送局) の番組 'Mise Seán Ó Riordáin' (2013)からの短い抜粋。
https://www.youtube.com/watch?v=SLQFowZuQ9U

 Seán Ó Ríordáin (1916-77) は20世紀アイルランド語詩を代表する詩人の一人。
ここで引用される彼の詩 'Fill Arís' は(英語に汚染される前の)アイルランド語の国に戻れと呼びかける。Nuala Ní Dhomhnaill はその当時でもそれは幻想であったと語る。

 美しいアイルランド語が聞ける動画は数少ないが、これはその一つ。 

 アイルランドの植物について tweet を見つけた。


deoraDe

 アイルランドでよく見かける花。

 deora Dé はアイルランド語で「神の涙」。英語で red fuchsia. 英語だと「フューシャ」だけど、日本語だと「フクシア」。

*** 

 ちなみに、フォークロア収集家のエディ・レニハンの民話集異界のものたちと出遭って―埋もれたアイルランドの妖精話を出版しているのが、「アイルランドフューシャ奈良書店」。(この本は大変おもしろい妖精譚の宝庫で、その方面に関心があればおすすめします。イェーツが百年以上前に他の収集家の本などから間接的にまとめ上げたような書物でなく、現代に生きるレニハン自身が収集したものです。)

[Amazon.co.jp] 

異界のものたちと出遭って―埋もれたアイルランドの妖精話
エディ レニハン
アイルランドフューシャ奈良書店
2015-06



[楽天ブックス]
異界のものたちと出遭って [ エディ・レニハン ]
異界のものたちと出遭って [ エディ・レニハン ]

 上の tweet をしたアカウントが Caint na Mumhan. アイルランド語で「マンスター方言」の意。


 アイルランドで道を歩いていてこの花を見かけると感慨深い。花の名前と花の実体が人びとの心深くに刻まれているせいかもしれない。 

***
 この記事を見たアイルランドの知人が西ケリーでは 'fiúsíos' というと教えてくれた。興味を惹かれて FGB を調べてみると 'fiúise' も同じ植物をさすことが分かった。

 なお、この知人は私たちの研究会で招いたことのあるアイルランドの学者で、メリマンに関する恐らく世界最高権威。 

 ダブリンを流れるリフィ河についての tweet を見つけた。


 かつて 'Ruirtheach' の名だったという。「荒々しい」の意か。

 ジョイスの 'Finnegans Wake' では Anna Livia Plurabelle がリフィ河の化身だ。

RiverLiffey

ディンヘンハス(地名にまつわる伝承)の学会のお知らせを見つけた。現代アイルランド語だと dinnseanchas. dinn は「場所」の意らしい。seanchas は「伝承」。


DinnsheanchasEireann2017S

 
 
開催は2017年3月24-25日。詳細は追って発表される。

地名は伝承の宝庫。地名譚を織込んだ歴史叙述や詩歌も多い。

首都名のダブリン(Dublin)だって、10世紀のヴァイキングによる植民期を彷彿させる名前だ。Dubh Linn (dark pool) という名称はリフィ河に別の川が流れ込むところにできた黒いよどみから来ているという。ヴァイキングは海からやってきて河口を見つけて内陸へ侵入していった。

私たちの研究グループは次の研究テーマとしてディンヘンハスを考えている。

 FGB の見出し語 do の 4.d にこう書いてある。

(In invocation) Oíche mhaith duit, I bid you good night. Codladh sámh duit, may you sleep well. Nollaig faoi mhaise daoibh, a happy Christmas to you.

 それぞれ、英訳だと動詞を補ったりしているが、原文に動詞がない。

 4.d の直前の 4.c は動詞なしの用例なので、これも動詞なしの類例かもしれない。もちろん、文頭に接続法の動詞を補うことも可能だろう。

 アイルランド語でいちばん簡単な挨拶のことば

Dia dhuit.


も明らかにこの 4.d の例だ。英語だとふつう Hello. と訳すだろう。

 でも、上記の例のようには、この言い方は直訳できない。

'God to you.'

 が本当にそのままの直訳だけど。これがどうして挨拶になるかを考えたり、前置詞 do の奥深い世界を考えたりしていると、迷宮のようでもあり、冒険のようでもある。

 この種のことを考えるには、FGB より、Dinneen の辞書を読む方がおもしろいだろう。

do
 

 どの辞書にもまだ出ていない新語を見つけた。

Breat-imeacht

 おそらくアイルランド語で Brexit の意味だ。(これ以外に 'sasamach' という言い方も見たことがある。

 ブリテン(Great Britain)のことをアイルランド語で

An Bhreatain (Mhór)

といい、離脱(departure, exit)のことをアイルランド語で

imeacht

という。その二つを組合わせたのが Breat-imeacht に見える。

 この tweet で気づいた。


Breat-imeacht


 元の記事はこちら。

Léim isteach sa dorchadas le Ciarán Dunbar
「暗闇に飛び込め」著者=キアラーン・ダンバー(2016年6月27日付)

 この記事には、Brexit は大いにアイルランドに関わりがあると書いてある。

***

関連記事

Get ready for united Ireland poll Taoiseach Enda Kenny tells EU leaders

(2016年7月19日付。アイルランド首相がアイルランド統一を論じた) 

 NUIG の夏期アイルランド語研修について Twitter に書いた。

Hooker_NUIG

Hooker [source]

ゴールウェーのフカー帆船 

 6月の土日は京都にこもってアイルランド語研究会で17世紀のアイルランド語を読んでいた。その中で発見したことがあるので書いてみる。

・基本に忠実に
・文脈から読む
・名詞と動名詞

基本に忠実に

これは読んで字のごとくで、特につけ加えることもない。つねに初心に還る。

私たちの場合だと、出発点はアイルランド西部のアイルランド語文法なので、その基本に立ち帰る。

この姿勢は、時として途方にくれるような場合に、突破口を開いてくれることがある。虚心坦懐に見つめる。見えるものをそのまま受取る。ちょうど妖精をみる老人のように。向こうからは見えているのだ。見えないのはこちらの目の問題。

文脈から読む

端的に言うと辞書をあまりに頼りにしない。もちろん、可能な限り、すべての辞書や文法書にはまず当たる。それでも推測がつかない場合のことだ。

そもそも、17世紀のアイルランド語にドンピシャの辞書や文法書があるわけでもない。必然的に、現代アイルランド語や古アイルランド語といった、側面からのアプローチになる。周辺から攻めて行ってどれだけ推理力を発揮できるか。

文脈をじぃっと見る。すると、こういう意味や用法としか思えないという姿が浮かび上がってくる。あとは、それを裏づける記述を辞書や文法書で、それがあるはずだという目で探してみる。たいがい出てくる。出てこなくても、それを最良の推論としておけば、いつか解がみつかることもある。

名詞と動名詞

明らかに名詞であっても、それを動名詞と解釈するほかない場面は実は多い。そんなときに名詞だからと動名詞と見ることを尻込みする必要はない。

よく調べると、名詞が動名詞に由来していることも少なくない。

だから、動名詞として辞書に記載がなくとも、文法的に動名詞の役割がぴたりとはまるならば、その可能性は排除しないほうがよい。

LunchCamphora

某大学の生協がやっているレストランは日曜も開いていた。今日のランチ594円。ハンバーグとサラダとポテト、スープ、ライス付き。

☘☘☘

 記念に、今日、最後に分かって疲れもふっ飛んだ文を書いておく。

Óir ní bhiadh ar súil-ne ré sochar ná somhaoin dár rochtain féin, ar siad, dá ndeachmaois do chathughadh ré Dál gCais .i. an cineadh is cródha 7 is calma i gcath láithribh; 7 an cineadh fós nár theith ré Lochlannchaibh riamh, is deimhin nach teithfidís romhainne acht mar sin.

(大意) 「というのも、我々が見込む財や富が我らのもとへ達することはないでありましょう」と彼らは言った、「もし我らがダール・ガシュと争いになれば、すなわち、戦場でこの上なく勇敢で強いダール・ガシュと争いになれば。さらにダール・ガシュはヴァイキングを相手にして逃げ出したこともなく、また実に我らを相手にして逃げ出したこともないのであります」。

 ダール・ガシュは10世紀にアイルランド南部で強大であった一族。

 ウルフという神学者が「うすい場所」を体験したことを書いている。この神学者は文章が抜群にうまく、神学の思想も深く、親しみやすく、おもしろい。ちょっと稀有な霊性研究者かと思う。

 カナダでそういう場所のことを知っていたと書いている。いまいるこの世界と異界との膜が非常にうすく、一歩進んだだけで行き来できるような場所のことだ。彼女が書くことは精妙な体験の話なので文体がすべてだ。この文体のひだに秘密がかくされている。

 ケルトの伝承についてふれたのが次の箇所だ。

The Celtic tradition had a phrase for it (Celtic tradition would, of course!): it call places like this "thin places," or so I've been told. There are spots where this world and the realm of the spirit come close together, some claim. That may be; or it may be that there are some places, like some chords in music, that evoke something spiritual in people, as the smell of burning leaves can bring back childhood to many of us; and that some places have more of that power of evocation than others. Whatever. I don't know, and I'm not sure it's all that important anyway. Even if scientists could pin down the loci of the brain centers involved and isolate the requisite stimuli, would it really make any difference?

 非常に正直なことに、そういう場所がなぜそういう場所であるかは分からないと書く。仮にそういう状態について脳科学的に説明がついたとしても、それが何の違いがあるかとも。

 彼女が知るこの場所は、ある敬虔な女性と結びついていた。その女性は神への信仰がふかく、この松林の中で聖母と出会っている。そこでウルフはその女性を知る神父に訊く。聖母はもとからこの場所にいたのか、それともこの女性の祈りが聖母を引き寄せたのかと。神父はもとから聖母がここにいたと応える。

I was talking about all this to an old priest who lives here, one who'd been close to the holy woman and had known this place almost from the first days of the community. I asked him the tree-falling-in-the-forest question: did that woman find Mother Mary already here in the woods, or did her prayers bring Mother Mary here? Mary had always been here, he said; the woman had only named her and had taken root here because of Mary's presence. Question answered.

 この問答は、ある場所の聖化あるいは聖性について興味深い示唆を与えてくれる。

 どうやら、地球上の場所に関しては、特異点のような聖なる場所があるのかもしれない。

 ここで終わっていればある意味でふつうだが、ウルフはさらに考えをすすめて、われわれ自身がそういう「うすい場所」となることができるのではないか、と書く。ウルフがそう考えた理由は、そういう人物を何人も知っていたからである。神父もその一人だ。

A more radical thought: maybe we could work on becoming ourselves the thinnest places we can manage to be. Not thin in the sense of meagerness, as fashion models are thin--in fact, now that I think about it, the "thin place" people I know are as often as not quite comfortably upholstered--but thin in the sense of transparency: being as full as we can hold of the love of God, and leaking it like crazy. Highly permeable membranes. The priest himself was like that; he leaked a deep and quiet peace.

その人の存在そのものから深く静かな平安が漏れ出すような、そういう人物。神と人との間にあり、自らを透明な膜と化したひと。その膜を通して神の世界と人の世界の行き来が可能になるような人物。

よく考えてみると、これは神秘主義でもなんでもない。ごくふつうの神学的思想だ。

ThinPlace_Wolf
 

 Caol Áit のことを調べていて神学者 Molly Wolf の文章に出会った。

 さらに、ウルフの本に引かれていた次の詩に惹かれた。

Learn what you must learn,
Go where you must go;
When you stop running, stand still,
Listen, you will know
That you can find God where you are
Hiding in plain sight.

– Deborah Griffin Bly

[cited in 
Molly Wolf, Hiding in Plain Sight: Sabbath Blessings (Collegeville: The Liturgical P, 1998)

 上記のウルフの文章 'Thin Place' は実にすばらしい。神学者がケルトの伝承のことにふれ、かつ自分自身の類似した体験を語る。稀有な文章だ。

 カナダにもそういう場所があるのか。

 いや、それだけでなく、そういう場所とそういう人があるという。ウルフの言葉では '
the thin-place places and the thin-place people'  ということになる。

 つまり、場所だけでなく、人もそういう存在になり得るということだ。このことの衝撃は大きい。 

 そもそもウルフの文章に気づかせてくれたページにあった Celtic cross を掲げておく。

 celtic_cross