酒井 俊弘『雇われ羊飼いのふたたび言いたい放題―聴ける・笑える・うなずける、目覚まし説教集〈第2弾〉教友社、2010

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 聖エスクリバーの聖遺物に何を祈るか。その問いを立てたうえで、酒井神父は「専門職とキリスト者としての日々の務めを果たしつつ聖性を求める道」だと語った(「聖ホセマリア・エスクリバー記念ミサ」の章)。この道を歩まなければならないと。

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[聖ホセマリア・エスクリバーの祈りのカード]

 では専門職とは何か。 それぞれの役割を果たすこと。職業だけでない。学生なら勉強をすること、主婦なら家庭を心地よく過ごす場にし、家族を幸せに導く家事をすること。さらに病人については。

たとえば病気に何もできないように見える人であっても、よりよい病人になろうと試みるときに、それもまた立派な専門職、その人にしかできない専門職と言えます。(333頁) 

 では専門職をどうすれば聖性を求める道とすることができるのか。「キリストとともに」がキーワード。ルカ5章1-11節を引いて酒井神父は説明する。イエズスが漁が終わって休んでいるペトロの舟に乗込み、こう言われる。

沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。(同4節)

  漁師としての長年の経験を無視する言葉なのでペトロは反感を覚える。しかし、イエズスの望みに従う。ここに神の要求の特徴があると酒井神父は説く。

私たちの経験とか、私たちの記憶とか、私たち自身のやりたいことであるとか、こうなってほしいと願っていることとか、そういうものとはちょっと違うことを神様は要求されます。言い換えれば、そういうことでないと本当に神様が要求していることではないのかもしれません。ですから、それに応ずるかどうかが大きなカギになります。(335頁)

 ここがポイントで、「キリストとともに」いるとは、この福音書の場面のように振る舞われるイエズスに応じることである。

つまり、イエス様のために場所を空ける、イエス様の話に耳を傾ける、そしてそのイエス様の望みを実践する。これがつまり、祈るということなのですね。祈る時間をとる、時間を空けるわけですね。神様のために。そして、祈りの中でイエス様の言葉に耳を傾ける。聖書を読んでもいいですし、他の本でもいいですしイエス様の言葉に耳を傾け、そしてその言葉から読み取ったものを実践する。実際に決心して実行する。(335頁)

 この章で酒井神父は創世記2章15節の重要性を指摘する。

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。

これは3章のへびの誘惑の前。すなわち、原罪の前。それについて酒井氏はこう説く。

この「耕す」というふうに訳されているところは、ラテン語原文では ut operaretur、つまり「働くように」という意味なんですね。これがキーワード。神様は人を、エデンの園で働くために置かれた。だから、人が働くようになったのは、原罪で楽園を追い出されて、仕方なく食べていくために働き出したんではないんです。働くこと自体は決して原罪の罰などではなく、むしろ神の創造の業を継承していくための良い業だからです。(332頁)
 「働く」ことが神の創造の業を継承するための良い業であるということがここでのポイント。

 ただ、原文はもちろんヘブライ語で、「耕す」のところは ‛âbad という動詞が使われている。基本的な意味は「働く」「仕える」だ(Brown-Driver-Briggs-Gesenius, 1979)。旧約聖書で250回以上使われている語だ。ただし、Brown-Driver-Briggs-Gesenius の Lexicon でこの創世記2章15節の用例のところを見ると、基本義としては labour, work, do work でありながら、この箇所におけるように目的語(ここでは「園」)が省略された用法の場合は、till the ground「(地を)耕す」の意であるとしている。

 ヘブライ語で「耕す」の意味であるとしても、上の酒井神父の説くところは有効性を失わない。耕すことは働くことであり、その意味で働くことが原罪以前に神から求められた業であることは間違いない。