寺田寅彦「どんぐり」〔1905〕

 岩波文庫の『寺田寅彦随筆集 第一巻』の巻頭に用意された随筆。

 冬の今頃、植物園を訪れても、「花も緑もない地盤」があるばかりであろう。「なんの見るものもない」。出口に近づいたとき、連れ立って歩いていた妻が大きな声をあげる。
後ろで妻が「おや、どんぐりが」と不意に大きな声をして、道わきの落ち葉の中へはいって行く。なるほど、落ち葉に交じって無数のどんぐりが、凍てた崖下の土にころがっている。妻はそこへしゃがんで熱心に拾いはじめる。見るまに左の手のひらにいっぱいになる。

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 万城目学は「どんぐり」について、こう書く。
どれほど短い作品であっても、きっと何も知らずに「どんぐり」を読む者は、二度とその印象を朧にすることはないだろう。それくらい、静かな筆致で記された、どんぐりを巡る月日が生む小さな話は、忘れがたい寂寥の気配を置き去りにしていく。(『冬の本』150頁)

 妻は病気で身重であった。医者の許可を得て植物園へ連れて行ってやったのである。この本当に小さなエピソードがなぜ忘れられないのだろう。それは、上に引いた箇所の次の段落があまりに衝撃的で、そこで時間が凍りついたようになってしまうからだろう。そこを読んでしまったひとは、二度とその印象を忘れることができない。

 当時、妻は17歳だったというから、ポーの幼な妻を想わせる。薄倖であるところも似ている。美しいひとであったことも似ている。何より夫からふかく愛されたところが似ている。