乙川優三郎『生きる』文春文庫、2005

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 まことに不条理な物語である(2002年直木賞受賞作)。主君が死に、臣下の者どもは後を追うこと(=追腹)や先に旅立つこと(=先腹)が当然のごとくに言われた時代に、先見の明ある家老の命にしたがい、生きて藩や家族を支える道を選んだ男、石田又衛門の物語である。

 当然、男を取巻く城下や世間は、白眼の嵐である。針の筵である。その圧力にさらされた周りの者たちや近親者たちも、つぎつぎに斃れてゆく。逆境などという生易しい状況ではない。気がついてみれば、身内や味方はほとんど残っていない。生きること自体が地獄のような状況である。

 そんな中、男はみずから正しいと選んだ道を信じ、わずかな青眼の人々の温かい心のみを支えに、気丈に生きてゆく。時流にさからうわけだから、かっこ好いわけがない。まことにかっこ悪い。

 けれど、読者にはわかる。そうと書かれてはいないけれども。この男が人を見る目はほんらい、決して白眼でなく、青眼であることを。白眼を向けられたときのみ、白眼を返す。

 こんな、一見かっこ悪いけれど、かっこ好い生き方もあるのだと、教えられるような時代小説である。

 歴然たる身分社会を反映する時代小説ではあるけれども、はたして時代小説なのであろうか。男が置かれたような仕儀は、文字通りの切腹ではないにせよ、意義としてはそれに近い状況は、無数に現代の世の中にあるのではないか。そんなときにどんな生き方を選ぶのが正しいのか。正しくないのか。考えさせられる。

 病弱だった妻佐和が生前、語った言葉を婢のせきが男に聞かせる。
何を幸せに思うかは人それぞれだと、たとえ病で寝たきりでも日差しが濃くなると心も明るくなるし、風が花の香を運んでくればもうそういう季節かと思う、起き上がりその花を見ることができたら、それだけでも病人は幸せです
この言葉を聞く又衛門は、眼前に群生する菖蒲(あやめ)に差す薄日に、何を見たのであろうか。

 以上は表題作。他に退官した父と女郎屋に売られた娘をえがく「安穏河原」、出世するなかで内縁の妻を捨てた男をえがく「早梅記」を収める。いずれも、仕官生活の中で家族を真に思いやるだけの度量を欠いた男の短慮をするどくえがきだす佳作。「早梅記」で捨てられたしょうぶは、あるいは理想化され過ぎているかもしれないが、魅力的な女性だ。

生きる (文春文庫)
乙川 優三郎
文藝春秋
2005-01