小林 稔訳、大貫 隆訳『新約聖書〈3〉ヨハネ文書―ヨハネによる福音書 ヨハネの第一の手紙 ヨハネの第二の手紙 ヨハネの第三の手紙』岩波書店、1995)

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 「ヨハネによる福音書」を小林稔が訳し、「ヨハネの第一の手紙 ヨハネの第二の手紙 ヨハネの第三の手紙」を大貫隆が訳す。どちらも伝統的に使徒ヨハネを著者とするので「ヨハネ文書」としてまとめる。

 岩波版の新約聖書が原典の正確な訳出および特定の教派に偏らぬ不偏性を目指すことがよく知られていながら、本書はやや第一分冊、第二分冊と違う面がある。

 第一に、「ヨハネによる福音書」の翻訳があまりうまくない。日本語として舌足らずである、あるいは奇異に映る。第二に「ヨハネによる福音書」の訳注が説得力に乏しい。

 ただし、「ヨハネによる福音書」の思想的特徴についての訳者の見解(「私がいる」の表現は「いつも人々と共にいる者」としてイエスを提示しているなど)は独特のものであり見るべきところがあるのだけれども、全体として訳文という形の日本語にうまく昇華できたかどうかは疑問が残る。

 例えば、頻出する「看る」の用字(「thōreō」の訳と補注に書いてあるが、「theōreō」の間違いだろう)は最後まで、評者にはなじめなかった。

 具体的に書く。ヨハネ20章「マグダラのマリヤへの顕現」の場面で、「そして、彼女が看ると」(12節)と書いてある。原語はもちろん「theōreō」の動詞が使われており、ふつうは 'beholds' などと訳す。バウアーの新約聖書ギリシア語辞典を見ても、この箇所の意味は 'be a spectator, look at, observe, see' (目撃する、観察する、見る)の意とある。それをどうして「看る」という用字を宛てねばならぬのか、理解に苦しむ。どうしても訳語を機械的に訳し分けねばならぬというなら、例えば「よく見る」であってもかまわないだろう。

 参考文献の説明がほとんどないのはどうしたことだろう。「真理の福音」とだけ書いて、いったいどれくらいの読者が何の本のことか分かるというのだろう(『ナグ・ハマディ文書』の一。グノーシス文書)。研究者にとって自明のことであるというなら、研究者向けに文献書誌を記すくらいのことはしなければおかしい。

 以上の結果、本書をもとに何か探求を続けようという意欲はそがれ、むしろ他の書に赴こうという意志が生まれるだろう。元々これらの文書は大変に重要で、また魅力にもあふれたものだから。なにより、「ヨハネ福音書の中心はキリスト論にある」(大貫隆)。すなわち、ヨハネ福音書で「神の子キリストについて語られる時、それが何時、何処であっても、まさにその瞬間が過去と未来のすべての時を包括した現在となる」のである(154頁)。この現在への集中をもっと完成された日本語で表してほしかった。

 「ヨハネの第一の手紙」4章の「イエスをないがしろにする霊」(3節)についての訳注は卓越したものである。「ないがしろにする霊」は古代教会の教父に見られる独特のキリスト論的表現で、これが「告白しない霊」のような定型表現(多くの写本に見られる)に修正されたと見る。瞠目すべき見解である。ちなみに、新共同訳聖書では同節を「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。」と、定型にのっとって訳す。