紅玉いつき『サエズリ図書館のワルツさん 1』(講談社、2012)
図書館が稀少存在と化した近未来の話。電子書籍が当たり前で紙冊体の本はときに敵視されるほどの贅沢品となった時代の物語である。
本など読んだことのないカミオさんとこの図書館との出会いを描く第1話が秀抜。あとの3話はいづれも本との深い関係を描く。
本が好きとはどういうことなのだろう。
さらに、本を所有するとはどういうことなのかについて考えさせる第4話は、冒頭の軽やかな第1話からは想像もつかないくらい深い話。simeさんによるその第4話の扉絵はため息が出るくらい美しいのだけど、その美しさの背後に秘められた歴史に驚く。
現代文明が何らかの理由により破壊されたあとの荒廃した世界を描く小説には、コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』(原著は2006年刊)など傑作はいくつもあるけれど、この作品は本に焦点をしぼった点で、特異なシリーズになりそうである。
本書に描かれたような時代がもし到来したとして、果たして本は人を支えるだけの力を持てるのだろうかと、ふと考えさせる点で、興味深い。
アイルランド語と所有の観念
初歩のアイルランド語で次のような文があるとする。
Tá leabhar agam.
もし、英語で書かれた本で勉強していたら、必ずやこう書いてあるだろう。
I have a book.
けれど、果たしてそうなのだろうか。
このアイルランド語は、<私のところに本がある>の意である。たまたまあるのである。必然的にあるのではない。だから、たまたま私のもとに寄寓しているものだから、私の子や孫が受継いで読んでくれたり、縁あって他の人の手に渡って読まれたりするのは、ごく自然なことなのである。
そんなことを想いだしたのは、紅玉いづきさんの『サエズリ図書館のワルツさん 1』(星海社FICTIONS)を最近、読んだからだ。
この本は文章も面白いし、イラストレーション(simeさんによる)もとてもきれいで、さらに、本としての造りに神経が行き届き、本文の組み方やしおりの色に至るまで、まことに満足度が高い。
この始まったばかりのシリーズの第1巻には4話が収められており、第1話は軽やかで読みやすい。ところが、話が進んでゆくうちに段々深く重くなってゆく。
最後の第4話では、ついに、「特別探索司書」である主人公ワルツさんの「本性」が垣間見える。こんな言い方は美しい人に対して使いたくないけれど、<あの本はわたしのものだから>と宣告するワルツさんの確かに「本性」がそこには見えるのである。みにくい本性といってもいいかもしれない。
けれど、本当にそうなのだろうか。
本は何のためにあるのか。読まれるためにある。
読まれることを究極の形につきつめれば、誰もが読めることが望ましい。
そのことと、本がわたしのもの、との言とは矛盾するように見える。だけど、本当に矛盾するのだろうか。
ワルツさんのものであることは間違いない。また、それをワルツさんが望んでいるのも間違いない。けれども、それは、あくまで、「特別探索司書」として、その図書館の本は地の果てまでも探しに行く覚悟と表裏一体なのだ。
つまり、本はわたしのもの、即ち、本は図書館にあるべきもの、となる。所有が所有でない。まことに矛盾したありようながら、これしかないと納得させられるふしぎな人格をワルツさんは備えている。
図書館が稀少存在と化した近未来の話。電子書籍が当たり前で紙冊体の本はときに敵視されるほどの贅沢品となった時代の物語である。
本など読んだことのないカミオさんとこの図書館との出会いを描く第1話が秀抜。あとの3話はいづれも本との深い関係を描く。
本が好きとはどういうことなのだろう。
さらに、本を所有するとはどういうことなのかについて考えさせる第4話は、冒頭の軽やかな第1話からは想像もつかないくらい深い話。simeさんによるその第4話の扉絵はため息が出るくらい美しいのだけど、その美しさの背後に秘められた歴史に驚く。
現代文明が何らかの理由により破壊されたあとの荒廃した世界を描く小説には、コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』(原著は2006年刊)など傑作はいくつもあるけれど、この作品は本に焦点をしぼった点で、特異なシリーズになりそうである。
本書に描かれたような時代がもし到来したとして、果たして本は人を支えるだけの力を持てるのだろうかと、ふと考えさせる点で、興味深い。
アイルランド語と所有の観念
初歩のアイルランド語で次のような文があるとする。
Tá leabhar agam.
もし、英語で書かれた本で勉強していたら、必ずやこう書いてあるだろう。
I have a book.
けれど、果たしてそうなのだろうか。
このアイルランド語は、<私のところに本がある>の意である。たまたまあるのである。必然的にあるのではない。だから、たまたま私のもとに寄寓しているものだから、私の子や孫が受継いで読んでくれたり、縁あって他の人の手に渡って読まれたりするのは、ごく自然なことなのである。
そんなことを想いだしたのは、紅玉いづきさんの『サエズリ図書館のワルツさん 1』(星海社FICTIONS)を最近、読んだからだ。
この本は文章も面白いし、イラストレーション(simeさんによる)もとてもきれいで、さらに、本としての造りに神経が行き届き、本文の組み方やしおりの色に至るまで、まことに満足度が高い。
この始まったばかりのシリーズの第1巻には4話が収められており、第1話は軽やかで読みやすい。ところが、話が進んでゆくうちに段々深く重くなってゆく。
最後の第4話では、ついに、「特別探索司書」である主人公ワルツさんの「本性」が垣間見える。こんな言い方は美しい人に対して使いたくないけれど、<あの本はわたしのものだから>と宣告するワルツさんの確かに「本性」がそこには見えるのである。みにくい本性といってもいいかもしれない。
けれど、本当にそうなのだろうか。
本は何のためにあるのか。読まれるためにある。
読まれることを究極の形につきつめれば、誰もが読めることが望ましい。
そのことと、本がわたしのもの、との言とは矛盾するように見える。だけど、本当に矛盾するのだろうか。
ワルツさんのものであることは間違いない。また、それをワルツさんが望んでいるのも間違いない。けれども、それは、あくまで、「特別探索司書」として、その図書館の本は地の果てまでも探しに行く覚悟と表裏一体なのだ。
つまり、本はわたしのもの、即ち、本は図書館にあるべきもの、となる。所有が所有でない。まことに矛盾したありようながら、これしかないと納得させられるふしぎな人格をワルツさんは備えている。