詩の1行は小説でいうと何頁くらいに相当するのだろうか。

 ひとにより見解はさまざまだろう。狭い経験だけれども、だいたい詩の行数に10から100をかければいいような気がする。

 量はそうだとして、解釈に要する時間はどうだろう。これは作品によるだろう。瞬間的に分かるかもしれないし、何十年かかることもある。

 あるアメリカ現代詩人の2行の詩について講義したことがある。そのときは、ベーシックなことをおさえるだけで8時間くらいかかった。

 そんなことをして何になるのか。得するのか。と問われれば、うーんとうなったまま、たぶん答えられない。

 だけど、ひとつだけはっきりしていることがある。何時間かかろうと、ともかく分かったあとは、その種のものは一発で分かるようになることだ。

 その2行は「地下鉄の駅で」という題で、エズラ・パウンドという詩人が書いた。駅はパリのメトロの駅。

The apparition of these faces in the crowd;
Petals on a wet, black bough.

 たったこれだけだ。動詞も何もない。おっ、これは体言止めでは、と思った人があったとしたら、それもそのはず。この詩の流派(イマジズム)は日本の俳句に影響を受けている。

 これ以降、世界中で俳句は親しまれるようになり、英語の短詩形としての 'haiku' まで今やある。この間までEUの常任議長(「EU大統領」と訳すことも)をやっていたベルギーのヘルマン・ヴァンロンプイ(Herman Van Rompuy)さんは俳人としても著名だ。他の言語では、アイルランド語で俳句を書く人もある。

 詩は文学のなかでも最も翻訳がむずかしいジャンルと思われている。けれども、現実には俳句が世界中で詠まれており、読まれている。各言語間での翻訳もさかんに行われている。なぜなのだろう。

 それに対する見解をどこでも聞いたことがないけれど、推測するに、同じ形式で詩を書いている人同士が、互いに相手が何を謳っているか、興味があるのじゃないかと思う。つまり、純粋な好奇心。ちょうど、サッカーをやっている人が、国や言語や人種など関係なく、ほかのサッカー選手に興味があるのと似ている。サッカーという形式をとるかぎり、選手はどこの国のひとでもいいし、監督もどこの国のひとでもかまわない。

 見ていると、小説や演劇や評論よりも、詩の方がはるかに軽々と国境を超え、ひょいひょいと歩き回っているように思える。なんとも面白い世の中だ。

 最後にひとつ宣伝を。英詩のマガジンをやってます。ご関心があれば覗いてみてください。もし、リクエストがあれば、上の例のような俳句をやってもいいですし、ロックやフォークやヒップホップの歌を取上げることも可能です。小説家も実は詩人としてスタートしているひとも多いのです。日本では梨木香歩さんなんかもそうです。どういうわけか、詩という形式には普遍性があるようです。

SakuraPetals


(関連記事)