芭蕉の有名な句

basho


 切れ字「や」の解釈で復本一郎が『俳句と川柳』でおもしろいことをいう。

句中の切字「や」は内なる二重構造性と、そして完結性を約束する装置として働いているのである。

 外と内との二重構造性と、当然の完結性とはわかる。

 だが、もっとおもしろいのが、「蛙」の登場の仕方についての指摘だ。

従来、その鳴き声が珍重されていた「蛙」が飛び込み、静寂を破る音がしたのである。その音によって、芭蕉は我に返り、そんな自らを面白がっているのである。

 鳴き声でない音で驚かせたと。その音で芭蕉が我に返ったと。そんな自分を客観的にみて面白がる。その前にまず古色蒼然たる「古池」への感動がある。という内と外と。また音の伝統的カテゴリからの逸脱による驚き。

 これらぜんぶを統括し完結性をもたらす「や」。

 さらに、復本はふれていないが、ここには別種のダイナミズムもおそらくある。「古」を旧年とみる解釈だ。だとすると、蛙の音は新年を切開く音になり、単なる静寂を破る音でなくなる。

 ここまで考えると、驚きの何重奏であろうか。へたをすると収拾がつかなくなりそうなのに、しっかりつなぎとめられている。「や」によって。

 ひとつだけ不満がある。「水の」の部分だ。これは必要なのか。こう言わざるを得ないとしてもまことに平凡に感じる。他にもっといい言葉がないのか。「蛙」と「水」の「ず」の音の共鳴が、隠された「ふ」(古池)と「む」(飛びこむ)につらなるウ行音の母音共鳴を呼びおこす意図があるのか。

 本来厳粛な雰囲気を詠んだものだろうが、その音をたてるのが蛙だから、おかしみが知らずわいてくる。愛すべき句には違いない。