音楽と言葉の思考回路について、ある方から質問を受けた。音楽に耳を慣らすと外国語が聞取りやすくなるのかと。なかなか興味深い問題だ。以下、私の答えを再現する。

 言葉を中心にして考えると、アクセントのとり方によって二種類に分かれます。強勢とピッチです。強勢によるアクセントの言語の場合、強勢がつくりだすリズムが聴き取れないと、意味をとるのが困難です。リズム上のまとまりが意味のまとまりに相関しているからです。脳の中の認知のメカニズムがそうなっています。

 かたや音楽の方ですが、クラシックのような指揮者・演唱者が自由にリズムを決める音楽は別として、ある種の定常的なビートを備える音楽の場合、リズムがとれなければ音楽になりません。


 というわけで、リズムのある音楽と強勢でリズムをとる言語(強勢拍律言語)との間には、たぶん親和性があります。なので、前者に耳が慣れていると後者が聞き取りやすくなることはありそうです。

 Jazz Chants という、その考え方を応用した試みもなされたことがあります。ことばの教材としては中々すぐれています。 

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 ここで少し上の話題からそれますが、興味深い事例を挙げます。音楽の起源に関する話題です。

 アイルランドの伝統音楽にダンス音楽があり、そのリズムの種類の中にジグ(jig)という3拍子系のリズムがあります。この起源についての議論です。

 ジグのリズムに乗って踊っている場合、その言語的起源について想いを馳せることは、まずありません。あるとしたら、韻律学者のような変わった人くらいでしょう。

 ところが、一説にジグの起源は詩のリズムであるというのがあります。それが当たっているとすれば、詩のリズムが音楽の起源になっているわけです。確かに、ある種のアイルランド語の詩の詩脚内リズムは3拍子です。とすると、楽器や打楽器を使う前は口三味線だったのかもしれません。実際に、アイルランドやスコットランドでは口三味線の発展形である mouth music がさかんに行われています。

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 言語の認知を問題にする学問領域に認知言語学というのがあります。

 言語を脳が理解するときに、一まとまりになる区画を捉えられなければ、ことばがダラダラと続くだけになってしまいます。どこかで切る必要があります。

 その一まとまりを仮に「句」(phrase)とした場合、脳が認知する「句」と言語の構造上の「句」とは対応するといわれています。

 そうだとすると、言語の「句」を画するマーカをみつける必要があります。

 そのために基礎となる条件が、英語やアイルランド語の場合は音節(syllable)であるのに対し、日本語の場合はモーラ(mora)であるといわれています。というか、従来いわれてきました。

 ところが、最近の新しい説だと、日本語の場合でも、モーラだけでなく、音節を考えに入れないと解けない現象が見つかっています。

 ともあれ、音節を基礎ブロックとして、強勢アクセントをもとにリズムをきずく。そのリズムに乗って句を認識する。というのが強勢拍律言語(stress-timed language)の場合です。

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 冒頭に挙げた方からは言語のロジックについてもご質問があった。これも興味深い問題だけれど、ここでは、個人的な考えを一つだけ。

 言葉を用いてコミュニケーションをはかる場合に、伝えたいことは、往々にして論理でなく感情であると思っています。

 たとえば、あることが汚いと思われた場合、そのことじたいを伝えるのは思ったよりむずかしいことがあり得ます。「清浄」の概念は文化や宗教により異なるからです。

 だとすると、その根本のところはお互いの差異を認めたまま、前に進まざるを得ない。

 しかし、自分がある感情を抱いていることは、相手に伝えた方がいい場合があるでしょう。

 それをどうやったら伝えられるか、という意味での言葉のロジックは考える価値があります。

 そして、ある民族の感情の歴史を知るには、その民族の言語を知らなければならない、というのはおそらく本当でしょう。そこのところは、近似値あるいは迂回路を、翻訳によってある程度達成することがあるいは可能かもしれませんが、基本的には無理にちかいでしょう。

 それでも、その内容を「翻訳」して伝えることが、共同作業や相互理解のために必要だとしたら。そのためには、たぶん、共通の価値を見つけて、そこまでの道筋の違いを相手に分かるように伝えることが有効ではないかと思います。

 その共通の価値は、私見ですが、霊的なものか、「皮膚感覚」に近いもの(この場合の皮膚は『皮膚という脳』の考え方です)か、ヒトに関わること、の中に見出せそうです。たとえば、地球に人類が生存を続けるために必要なこと、とか。健康(WHOの一番ひろい定義)とか。


sruth